例えば、意次による通貨統一の悲願が込められた南鐐弐朱銀を発行停止にし、さらに蝦夷地の開発も中止してしまいました。ちなみに、これらの政策は定信が失脚した後に形を変えて再開されています。つまり、定信が打ち切りにした分だけ幕府は無駄な時間と労力を浪費していることになります。
また、寛政3(1791)年に工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が我が国における海岸防備の必要性を説いた「海国兵談(かいこくへいだん)」を著しましたが、定信は「世間を騒がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。だとすれば、我が国は現実より半世紀以上も前に開国し、幕末に黒船に迫られて、相手の言われるままに欠陥だらけの不平等条約を結ばずに済んだかもしれません。それを思えば、海国兵談の発禁処分は定信による「痛恨の失政」でした。
また定信は、海国兵談の他にも政治を風刺(ふうし)したり、あるいは批判したりする書物の発行を禁じるとともに、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)なども風俗を乱すという理由で発禁処分にしました。これらの命令は出版統制令と呼ばれています。
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