意次の悲劇はさらに続き、後ろ盾(だて)となっていた将軍家治が天明6(1786)年に死去すると、政治に対する非難が殺到していた意次は老中を辞めさせられ、失意のうちに天明8(1788)年に亡くなりました。
そして、15歳で11代将軍となった徳川家斉を補佐するかたちで、意次にかわって天明7(1787)年に老中となったのが松平定信でした。定信は、元々は御三卿の田安家の次男であり、吉宗の孫にあたることから将軍の後継者となる可能性もあったのですが、複雑な事情の末に白河(しらかわ)藩の松平家の養子となりました。
定信は、自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨んでいました。そのこともあったからなのか、定信は自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策をことごとく打ち切りにしてしまったのです。
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