また、西洋医学の解剖書を訳した「解体新書(かいたいしんしょ)」が前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成されたのも安永3(1774)年の田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠の一人であり、画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
これらのように、画期的かつ斬新な政治を行ったことで経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、政策の展開を苦々しい思いで見ている人物も少なくありませんでした。
彼らは、商人の力を借りることは恥であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めが、と意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめていた旧来の身分の高い人々でした。
また、これとは別に、田沼時代の政権末期の頃までに意次は庶民から大きな反発を受けていました。なぜそんなことになったのでしょうか。「賄賂の横行で政治が腐敗したからだ」と思いがちですが、実は、意次個人にその責任を負わせるにはあまりにも酷(こく)な「自然現象」が本当の理由だったのです。
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