意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前(まつまえ)藩に経営を任せていた蝦夷地の直轄を計画しました。天明5(1785)年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また、アイヌの自立を目指した意次は農作業を教えようとまで計画しました。これは、アイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支える鮭(さけ)や昆布(こんぶ)、毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。
なお、田沼時代の宝暦(ほうれき)8(1758)年に、幕府が天皇側近としてお仕えする若手の公家(くげ)たちを排除するという「宝暦事件」が起きました(詳細は次回=第82回の講座で紹介します)。また、後桃園(ごももぞの)天皇が安永(あんえい)8(1779)年に22歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、閑院宮家(かんいんのみやけ)から迎えられた光格(こうかく)天皇が即位されました。
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