重農主義ではもはや幕府政治が機能しないということを悟った意次は、やがて政治の実権を握ると現実的な重商主義に政治の姿勢を切り替えるとともに、開明的な政策を次々と実行していったのです。
意次がまず行ったのは一年間の予算の編成でした。現代では当たり前の予算制度ですが、江戸幕府においては、それまでは必要な際に幕府の金蔵(かねぐら)から金銀を引き出していたのです。このようないわゆる「ドンブリ勘定」を続けていては、いつまで経っても経費節減ができません。そこで、意次の時代になって初めて予算制度が成立したのですが、費用の割合はどうだったのでしょうか。
意次が自己の保身を図ろうとすれば、当然将軍家や大奥の費用を多めに計上すると思いますよね。ところが実際は全く逆であって、年を経るごとに減らされていきました。その一方で、町奉行などの民政に関する費用は据(す)え置かれていますから、結果としてかなりの経費削減に成功していることになります。
本当に幕府のためになる政治を目指すのであれば、将軍家や大奥のご機嫌を取ることなく思い切った手段を実行する。意次の「政治家」としての優秀さがうかがえる政策の一つですね。
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