その一方で、目安箱に入れられた書状の中には吉宗の政治に対して批判的な内容のものもありましたが、吉宗は投書した人物を処罰しませんでした。目安箱は、封建社会においては時として独裁政治になりがちな時代のなかで「お上(かみ)も過ちを犯すことがある」ことを事実上認めた画期的な制度でもあったのです。
吉宗は、さらなる収益の活性化をめざして新しい産業を興(おこ)そうと考えました。なかでも有名なのが甘藷(かんしょ)、いわゆるサツマイモの栽培でした。吉宗は青木昆陽(あおきこんよう)に命じて薩摩(さつま)で従来生産されていた甘藷を江戸でも栽培させました。甘藷はやがて救荒作物(きゅうこうさくもつ、飢饉の際に役立つ作物のこと)として全国に広がったのですが、この背景には大きな教訓がありました。
実は、吉宗による治世の間に大凶作があったのです。享保17(1732)年に起きた享保の大飢饉(だいききん)によって西日本を中心に多くの餓死者(がししゃ)が出ましたが、藩全体で甘藷を栽培していた薩摩藩では一人の犠牲者も出さなかったといわれており、吉宗もその事実に注目したのでした。
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