後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑しましたが、我が国が求めた賠償を革命政府が拒否したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は大正11(1922)年までシベリアから撤兵ができませんでした。
シベリア出兵は最終的に当時で約10億円を費(つい)やしたほか、将兵約72,000人を現地に派遣し、そのうち約3,500名を失うこととなりましたが、結果としては何も得るものがなかったばかりか、領土的野心を周辺諸国に疑われ、特に日米関係に大きな溝をつくってしまいました。
ところで、我が国の多くの住民や兵士が虐殺された尼港事件ですが、これだけの大惨事でありながら、なぜか我が国の高校での歴史教科書の多くが取り上げていません。そればかりか、チェコ軍の孤立を自国の領土的野心を満たす好機として我が国が進んで出兵したとか、あるいは我が国がシベリアでズルズルと駐留を続けたことで国際的な非難を浴びたというような、余りにも一方的な記述が見られる教科書もあり、当時の我が国が置かれた深刻な状況を判断することが極めて難しくなっています。
なお、我が国が保障占領した北樺太ですが、国家としてのソ連が成立した後の大正14(1925)年に日ソ基本条約が締結され、両国の国交が樹立したのを受けて我が国が撤兵しています。
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