パルチザンは我が国の守備隊と一旦は講和しましたが、やがて共産主義に同調しないニコライエフスクの市民を革命裁判と称して次々に虐殺するなど乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を繰り返し、同年3月には日本軍守備隊を全滅させ、また一部の日本人居留民を捕虜(ほりょ)としました。
日本政府は雪解けを待ってニコライエフスクに救援軍を派遣しましたが、パルチザンは救援軍が到着する前に捕虜としていた日本人をことごとく惨殺(ざんさつ)したほか、市民のおよそ半分にあたる約6,000人を反革命派として虐殺し、最後には市外に火を放って逃走しました。
ニコライエフスクにいた約七百数十名の日本人全員が戦死あるいは虐殺されるという大惨事に対し、我が国内で「元寇(げんこう)以来の国辱(こくじょく)だ」と対ソ強硬論が高まったのは当然でした。なお、この悲惨な事件はニコライエフスクの当時の呼称から「尼港(にこう)事件」と呼ばれています。
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