一方、我が国のチャイナへの進出に対して最も警戒し、かつ批判的であったアメリカとの間においても、同じ大正6(1917)年に前外務大臣の石井菊次郎(いしいきくじろう)とランシング国務長官との間で「石井・ランシング協定」が結ばれ、チャイナの領土保全・門戸開放の原則と、チャイナにおける我が国の特殊権益の保有とを確認しあいました。
しかし、この協定が結ばれた当時はアメリカが第一次世界大戦に参戦している時期であり、アメリカが我が国と協定を結んだのは、自国の参戦中に日本が中国大陸に対して余計な手出しをしないように抑え込もうと考えたのが主な目的でした。それが証拠に、この協定は大戦終了後の大正12(1923)年に早くも破棄(はき)されています。
このように、我が国とアメリカとの関係は常に不安定であり、資源を持たない我が国にとって生命線であった満州などチャイナにおける権益をアメリカが脅(おびや)かすようになりましたが、ちょうどこの時期に「ある大国」が滅亡したことによって、これらの権益がさらに危機的な状況を迎えてしまうのです。
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