追いつめられた桂は再び議会を停会したほか、大正天皇の詔勅によって事態を打開しようとしましたが、そんな桂の態度に激怒した国民の一部が暴徒と化し、東京や大阪で政府と関係の深い新聞社が襲われたり、国会を取り囲んだりする騒ぎが起きました。
こうした事態を受けて、一時は衆議院を解散して総選挙に持ち込もうと考えた桂もついに内閣総辞職を決断しましたが、それは組閣からわずか53日後のことでした。なお、これら一連の動きは、今日では「大正政変」と呼ばれています。
第三次桂内閣の崩壊(ほうかい)後には、立憲政友会を与党として薩摩出身の海軍大将の山本権兵衛(やまもとごんべえ)が第一次内閣を組織しました。山本は軍部大臣現役武官制を改正して、現役を引退した予備役(よびえき)や後備役(こうびえき)も、軍の意向とは無関係に首相が陸・海軍大臣に就任できるようにした(ただし、実際に選任された例はありませんでした)ほか、文官任用令を改正して政党員が上級官吏(かんり)に任用される道を開くなど、政党の影響力を拡大しようとしました。
ところで、第一次護憲運動から大正政変までの流れは「権力を持たない国民による運動で内閣を倒した歴史的な大事業」とされ、またいわゆる「大正デモクラシー」の幕開けとして高く評価されることが多いですが、その実情は果たしてどのようなものだったのでしょうか。
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