古学派のうち、山鹿素行(やまがそこう)は古代の聖賢(せいけん)に立ち戻ることを主張して、礼に基づく武士道を確立するとともに朱子学を激しく批判しました。また伊藤仁斎(いとうじんさい)・伊藤東涯(いとうとうがい)の父子は京都で古義堂(こぎどう)を開いて、仁(じん)を理想とする古義学(こぎがく)を唱えました。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)は徳川綱吉の側近であった柳沢吉保に仕え、晩年には8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)にも仕えました。徂徠は古代チャイナの古典を読み解く方法論である古文辞学(こぶんじがく)を確立したほか、知行地(ちぎょうち)における武士の土着などの統治の具体策である経世論(けいせいろん)を説きました。
また、徂徠の門人であった太宰春台(だざいしゅんだい)は徂徠の経世論を発展させた「経済録(けいざいろく)」を刊行して、武士も商業を行うほか、藩が専売制度を行って利益をあげる必要性を主張しました。
なお、朱子学を批判したことで幕府の怒りを買った山鹿素行は赤穂藩に流され、藩士たちに学問を教えました。赤穂藩の門下生の中には若き日の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)がおり、大石が後に主君の敵(かたき)として他の元家臣らとともに吉良上野介を討ち果たすと、その裁定に悩む幕府に大石らの切腹を主張し、最終的に認めさせたのが荻生徂徠です。
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