その後、成人した家綱が寛文3(1663)年に代替わりの武家諸法度(ぶけしょはっと)を発布した際に、大名が死亡した後の家臣の殉死(じゅんし)を禁止しました。これは、大名と家臣との関係は一代限りではなく、跡を継いだ主君に対してもこれまでどおり奉公(ほうこう)しなければならないという、主君に忠誠を誓う朱子学の概念にも由来した幕府の意思を示していました。
こうした幕府の政治姿勢は、それまでの武断政治から平和的な秩序の確立を目指す「文治(ぶんち)政治」へと大きく転換させることになり、家綱の次の将軍の治世(ちせい)で大きく花開くことになるのです。
なお、家綱は全国の大名に対して領地宛行状(りょうちあてがいじょう)を発給して将軍の権威を確認したり、幕府の直轄領において大規模な検地を行うことで収入の安定化を図ったりしています。また、末期養子の禁の緩和によって、上杉謙信(うえすぎけんしん)ゆかりの米沢(よねざわ)藩が改易を免(まぬが)れていますが、その際に末期養子となった上杉綱憲(うえすぎつなのり)は、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で有名な吉良上野介(きらこうずけのすけ)の実子です。
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