蝦夷地ではコメの収穫ができなかったため、松前藩は毎年コメや酒、鉄製品などを仕入れて取引場所に持参し、昆布(こんぶ)やアワビ、鮭(さけ)、毛皮などと交換していました。当時のアイヌは満州とも交易しており、蝦夷錦(えぞにしき)などのチャイナの織物が我が国にもたらされるなど、松前は外国に開かれた我が国の北の窓の役割を果たしていました。
松前藩は、和人地以外の蝦夷地に住むアイヌとの交易地である商場(あきないば、別名を場所=ばしょ)からの利益を家臣に与えることで、主従関係を成り立たせていました。これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)といいます。
それまでの自由な取引から松前藩の独占となったことで、不利益を受けることになったアイヌの不満は次第に高まり、やがて寛文(かんぶん)9(1669)年にシャクシャインが戦闘を行いました。これを「シャクシャインの戦い」といいます。
松前藩は近隣の津軽(つがる)藩の協力を得て戦いの鎮圧に成功すると、以後アイヌは松前藩に全面的に服従することになりました。その後、18世紀前半頃には近江(おうみ、現在の滋賀県)の商人をはじめとする場所請負人(ばしょうけおいにん)が商場の経営を請け負うようになり、彼らからの運上金(うんじょうきん)が藩の財政を支えるようになりました。これを場所請負制(ばしょうけおいせい)といいます。
アイヌは和人商人に使われる立場となり、やがて交易をごまかされるなどの不利益を受けました。こうしたアイヌの人々の生活事情を改善しようとしたのが、18世紀後半に政治の実権を握った田沼意次(たぬまおきつぐ)だったのです。
以上のとおり、後の世で鎖国と呼ばれる時代にあっても、我が国は長崎(オランダ・清)・松前藩(蝦夷地)・薩摩藩(琉球)・対馬藩(朝鮮)の「4つの口」を通して世界とつながっていたことになります。
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