家康から日朝の交渉を任された対馬藩(つしまはん)の宗(そう)氏によって、慶長(けいちょう)12(1607)年に朝鮮使節が我が国に来訪し、慶長14(1609)年には朝鮮との間に己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれました。
日朝貿易は宗氏に独占権が与えられ、貿易がもたらした利潤によって、宗氏は家臣との主従関係を結びました。領地の対馬が耕地に恵まれなかったこともあり、日朝貿易は対馬藩にとって文字どおり生命線だったのです。
寛永(かんえい)12(1635)年、幕府は日朝貿易を監視するために京都五山(ござん)の僧を対馬に派遣しました。貿易は朝鮮が釜山(プサン)に設置した倭館(わかん)で盛んに行われましたが、金銀の流出を防ぐ目的で、オランダや清国と同様に、貞享3(1686)年には幕府によって対馬藩の貿易額が制限されました。
なお、朝鮮からの使節は、その後も幕府の将軍の代替わりの慶賀(けいが)を名目に続けられ、朝鮮通信使と呼ばれました。
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