この禁令によって、農民が土地を捨てて離れるのを防ごうとしましたが、実際には「質入れ」というかたちで田畑は売買されていました。また、延宝元(1673)年には分地制限令(ぶんちせいげんれい)を出して、田畑の分割相続を制限し、耕地の細分化によって農民が没落するのを防ごうとしました。
また、五穀(ごこく)と呼ばれた米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆以外のたばこや木綿(もめん)、菜種(なたね)などの商品作物(しょうひんさくもつ)の自由な栽培(さいばい)を禁止する田畑勝手作(でんぱたかってづくり)の禁令を出しましたが、やがて農民の間にも貨幣経済が浸透(しんとう)し、儲(もう)かる商品作物の栽培が盛んとなると守られなくなりました。
この他、寛永19(1642)年頃に寛永の大飢饉(だいききん)が起きた後に、農民の暮らしに細かな指示を与える目的で、慶安(けいあん)2(1649)年に慶安の御触書(おふれがき)が出されるなど、幕府は農民に対してあれこれと細かい規定を設けていました。なお、慶安の御触書については、近年の研究でその存在が疑問視されています。
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