また、皇室や摂関家(せっかんけ、摂政や関白に昇進できる家柄のこと)などの公家と大名家との通婚を禁じて、倒幕勢力と皇室との結びつきを断つと同時に、徳川家自身は積極的に公家から正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)である御台所(みだいどころ)を迎えることで、皇室と関係の深い徳川家に弓を引かせないようにしました。
さらに、御台所を通じて徳川家と親密になった摂関家が就任する関白の地位を、天皇の男子である親王より上位とすることで、摂関家によって間接的に皇室をコントロールすることも試みました。また、幕府は京都所司代を通じて朝廷に幕府からの指示を伝えられるように、公家から2人を選んで、幕府と朝廷との窓口となる武家伝奏(ぶけてんそう)に任じました。武家伝奏は京都所司代と連絡を取りながら、幕府の意向(すなわち命令)を朝廷に伝えました。
この他にも、朝廷の領地である禁裏御料(きんりごりょう)が幕府によってわずか1万石(後に3万石まで加増)と定められたり、本来であれば天皇自らが行うことのできる行為が禁中並公家諸法度によって制限されたりしたことで、やがて朝廷と幕府との関係が一気に緊張化する事件が起きました。
なお、同じく禁中並公家諸法度によって武家の官位、すなわち幕府が大名や旗本などに与える官位は朝廷からの官位とは別に定めることができるようになっていました。後に南町奉行となった大岡忠相(おおおかただすけ)が「越前守(えちぜんのかみ)」と名乗っていたのは、このことが由来です。
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