さらには「女性天皇は終生独身」という不文律があったため、皇室における徳川家の血筋は明正天皇で途絶(とだ)えることになってしまったのです。
「葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」
上記の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を遺(のこ)された後水尾天皇は、4人の天皇の院政を続けた後に、延宝(えんぽう)8(1680)年に85歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されましたが、後に昭和天皇に破られるまでの歴代天皇の最長寿(神話の時代を除く)でした。なお、昭和天皇は記録更新の際に「当時の平均寿命の短さを考えれば後水尾天皇の方が立派な記録です」とお言葉されておられます。
ところで後水尾天皇の追号(ついごう)である「後水尾」は、天皇ご自身が生前にお決めになられたものでした。実は、この追号にも後水尾天皇の強いご意思が込められているのです。
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