天正(てんしょう)10(1582)年に起きた本能寺(ほんのうじ)の変で信長が倒されると、家康は秀吉と争った後に従い、天正18(1590)年に北条氏(ほうじょうし)が滅ぼされて秀吉が天下を統一すると、家康は北条氏の旧領である関東の諸国を秀吉から与えられ、約250万石を有する大大名になりました。その後、秀吉の晩年には五大老(ごたいろう)の筆頭となり、秀吉の死の直前に跡継ぎの豊臣秀頼(とよとみひでより)の将来を託されました。
しかし、家康には秀吉の遺言(ゆいごん)を守る意思はありませんでした。下剋上(げこくじょう)といわれた戦国の世のならいのままに、秀頼の後見人としての地位を利用しての専横ぶりが目立ち始めるようになったのです。
そんな家康の様子を苦々しく思っていたのが、秀吉の家臣であった石田三成(いしだみつなり)でした。三成は家康を倒して豊臣政権の安泰を図ろうとしたのですが、そんな彼には致命的な弱点があり、彼の決起はかえって豊臣家の将来に暗い影を投げかける結果をもたらしてしまったのです。
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