光秀は信長を討つことができたものの、何のビジョンも持たず、魔が差したかのようにいきなり単独で行動に及んだゆえに、彼に味方をしようとする武将はついに現れませんでした。そのうえ、中国地方から常識で考えられないスピードで「大返(おおがえ)し」してきた秀吉軍と、京都の山崎(やまざき)で戦うことになりました。
旧暦6月12日、光秀軍を兵力で上回る秀吉軍は、京都と大坂を結ぶ要衝(ようしょう)である天王山(てんのうざん)を抑えると、翌13日には光秀軍を攻め立てました。光秀もよく戦いましたが、結局は兵力の差が最後まで響いて大敗し、本拠地の坂本へ向かって敗走しました。
なお、天王山を抑えたことで秀吉軍が有利になったことから、勝負を決する大事な場面のことや、勝負の分岐点のことを「天王山」と表現するようになりました。
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