このため、高宗は自身も認めた国際的な条約であったにもかかわらず、自国の外交権回復を実現するために、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送って、第二次日韓協約の無効を訴えました。これを「ハーグ密使事件」といいます。
しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法性を認めずに密使の会議への参加を拒絶したことで、韓国は目標を達成できませんでした。高宗や密使らの当初の思惑とは裏腹に、国際社会が第二次日韓協約の正当性を認めたことにもつながったのです。
韓国の面従腹背(めんじゅうふくはい)ぶりが明らかになったことで、韓国は当時の国際社会の信頼を損なうと同時に我が国の激怒を招き、高宗は退位に追い込まれました。そして同年に第三次日韓協約が結ばれ、韓国の内政権が完全に日本の管轄下に入ったことで、我が国による統治がさらに強化されることになりました。
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