また、樺太・千島交換条約によってロシアの領土となった樺太も、南半分だけではあったものの取り戻せたことで、安全保障上において、我が国は戦争前より優位に立つことができたのです。
しかし、条約は良いことばかりではありませんでした。戦争における賠償金を、ロシアから一切もらうことができなかったからです。これは、早期の条約締結を優先した政府による苦渋の決断でもありましたが、我が国の優位を信じて疑わなかった日本国内における不満の声が高まりました。
講和条約が調印された明治38(1905)年9月5日に、東京・日比谷公園で講和反対国民大会が開かれましたが、勢いに乗った参加者が暴徒と化して、講和に賛成した新聞社や警察署などを次々と襲うという騒ぎになりました。これを「日比谷焼打ち事件」といいます。
なお、我が国が日露戦争における多額の戦時外債をすべて返済し終えたのは、戦争開始から82年後の昭和61(1986)年のことでした。
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