山県首相は演説の中で、当時の厳しい世界情勢のもとで我が国が置かれている立場を冷静に分析し、他国との国境たる「主権線」と、国境を守るための朝鮮半島など我が国の周辺地域たる「利益線」を死守するためにも、軍備の増強が不可欠であると訴えました。
いわば国益を最優先させた山県首相の演説に対して、当時の民党が一斉に反発し、行政費を節約して地租の軽減や地価の修正を行うべきだと主張しました。これを「政費節減・民力休養」といいます。
山県内閣(第一次)は民党からの激しい攻撃を受けたものの、立憲自由党の議員を切り崩して、何とか当初の予算案を一部修正して成立させましたが、山県首相は翌明治24(1891)年5月に辞職しました。
山県はその後、元老(げんろう)として我が国の政治に大きな影響を及ぼしましたが、大正11(1922)年に85歳で死去しました。我が国を守るためとはいえ、ひたすら軍事力の増強を訴え続けた山県に対して当時の国民は冷たく、日比谷公園で行われた彼の国葬の参加者も大変少なかったそうですが、歴史の現実としては、予算案の通過からわずか3年後に日清戦争が起きており(詳細はいずれ後述します)、山県の判断が結果として正しかったことが証明されています。
山県有朋の遺(のこ)した実績を振り返ったとき、国民的人気を得られなかったとしても、国益のために命がけで取り組んだ「本物の政治家」の生き様を、私たちは目にすることができるかもしれませんね。
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