その後、永禄11(1568)年旧暦9月に、織田信長が時の正親町(おおぎまち)天皇をお護りするために義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)を伴って上洛を果たすと、久秀が信長に降伏して、同年旧暦10月に義昭が新たに15代将軍となりました。なお、将軍を追われた義栄は失意のうちに間もなく亡くなっています。
義昭は自分を将軍にしてくれた信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍になるよう勧めましたが、信長はいずれも辞退して、代わりに堺を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。
地位や名誉を欲しがらない信長の意外な行動を周囲は不思議に感じましたが、いわゆる「名よりも実を取った」信長の行為の裏には、彼によるしたたかな計算があったのです。
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