それに加えて、義材は自分を将軍にしてくれた「恩人」でもある日野富子と次第に距離を置くようになっていたため、義材に対する富子の不満も高まっていました。
そんな折の明応(めいおう)2(1493)年、義材は守護大名の畠山氏を討伐するために河内へ遠征すると、その隙をついて京都で政元と富子がクーデターを起こし、義政の異母兄で初代堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも)の子である足利義澄(あしかがよしずみ)を新たに11代将軍に立てました。
無理やり将軍職を追われた義材は、失意のうちに越中(えっちゅう、現在の富山県)へ逃れ、また明応5(1496)年に富子が亡くなったため、以後の幕府の政治の実権は政元が握ることになりました。これを当時の年号から「明応の政変」といいます。
明応の政変は、室町幕府の将軍が、時の権力者たる臣下の思惑によって簡単に交代させられてしまうという事実を世に示したことを意味していました。足利将軍の地位が単なる「権威」に過ぎず、臣下が将軍を必要としなければ、それこそ「使い捨て」のように処分されてしまうという冷徹な現実がはっきりしたことから、この時期こそが戦国時代の始まりにふさわしいという説もあります。
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