しかし、義尚は長享(ちょうきょう)3(1489)年に25歳の若さで子のないまま死亡してしまい、義視の子の足利義材(あしかがよしき)が後継者として翌延徳2(1490)年に10代将軍となりました。
義材は義視の子であり、また義視は富子と激しく対立して応仁の乱が起こったのですから、義材の将軍就任によって富子は当然のように権力を失ったと誰しもが思いますよね。ところが実際にはそうはなりませんでした。
なぜなら、義材の母(=義視の妻)が富子の実の妹だったからです。応仁の乱のはるか以前にかけていた「保険」によって富子の権力は温存されるとともに、夫と子を失ったことで、富子は蓄財と権力の保持にますます力を入れるようになりました。
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