赤松氏は幕府にとって「将軍殺し」の天敵であり、禁闕の変の際にも後南朝側についていました。そんな赤松氏であれば、後南朝に味方と偽(いつわ)って吉野からさらに山奥まで入るのは容易(たやす)いことです。
幕府は赤松氏の申し出を許可すると、遺臣たちは長禄(ちょうろく)元(1457)年に後南朝の御所を襲い、南朝の血を引くとされる一ノ宮・二ノ宮兄弟を殺害しましたが、神璽については一時は持ち去ったものの、憤激した後南朝を支持する勢力によって奪い返されてしまいました。
赤松氏の遺臣たちは、1年後の長禄2(1458)年に一ノ宮・二ノ宮の母の御所を再び襲い、今度こそ神璽を奪い去ることに成功しました。こうして禁闕の変以来、多くの血を流して約15年ぶりに神璽が朝廷に戻ったのです。
これら一連の事件は、当時の年号から「長禄の変」と呼ばれています。なお、殺害された一ノ宮・二ノ宮の兄弟(別名を自天王=じてんのう、忠義王=ちゅうぎおう)は前述のとおり南朝の血を引くとされていますが、その詳しい血統は分かっていません。また、神璽を持ち帰った赤松氏は再興が認められ、後に守護大名に返り咲いています。
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