さらに翌永享12(1440)年には、持氏の遺児を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙兵しましたが、義教はこれらも滅ぼしました。この戦いを「結城合戦(ゆうきかっせん)」といいます。
かくして、鎌倉をも自分の支配下に入れた義教の権力は絶対的なものとなり、古代の盟神探湯(くかたち、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽=しんぎを判断するという神判=しんぱんのこと)を復活させたり、些細(ささい)なことで激怒して死罪などの厳しい処断を下したりした義教に対して、周囲は「万人恐怖」と震え上がりました。
義教からしてみれば、幕府や将軍の権威を高めるための当然の行為でもあったのですが、その余りにも強引な政治手法は、必然的に守護大名などの対立する勢力の反発を招くことになりました。そして義教の恐怖政治は、かの織田信長と同じように、突然その幕を下ろす日がやってくるのです。
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