南朝の天授4年/北朝の永和(えいわ)4(1378)年、義満は京都の室町に「花の御所」と後に呼ばれた豪華な邸宅を造営し、以後はここで政治を行ったことから、足利氏による幕府のことを「室町幕府」と呼ぶようになりました。
また、義満はこの頃までに大きくなり過ぎて幕府の言うことを聞かなくなった守護大名の弱体化を目指し、南朝の元中7年/北朝の明徳元(1390)年に美濃(みの、現在の岐阜県南部)・尾張(おわり、現在の愛知県西部)・伊勢(いせ、現在の三重県北部)の守護を兼ねた土岐康行(ときやすゆき)を滅ぼしました。これを「土岐康行の乱」といいます。
翌年の南朝の元中8年/北朝の明徳2(1391)年には、西国11か国の守護を兼ねたことから「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれた山名氏(やまなし)に内紛が起きると、義満はこれに乗じて山名氏清(やまなうじきよ)を滅ぼしました。この戦いを、当時の年号から「明徳の乱」といいます。
さらに義満は、中国の明(みん)と勝手に貿易を行っていた周防(すおう、現在の山口県東部)の守護大名である大内義弘(おおうちよしひろ)を応永(おうえい)6(1399)年に滅ぼすことに成功しました。この戦いは、当時の年号から「応永の乱」と呼ばれています。
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