これでは北朝が「失くした神器を取り戻した」ということになり、南朝の正当性が一切認められないことを意味します。また、退位された後亀山上皇も当初は正式に上皇と認められず、義満の裁定によって「不登極帝(ふとうきょくのてい)」、すなわち「即位していない天皇」に上皇の地位を与えるということになりましたが、即位が認められなければ、後亀山上皇が「治天(ちてん)の君(きみ)」として院政を行うことができません。
両統迭立の約束も後小松天皇の次の天皇となる皇太子が長いあいだ決められず、義満の死後に後小松天皇の子の称光(しょうこう)天皇が即位されたことで、南朝への皇位継承の道が遠くなり、さらには国衙領もこの頃までには実質的にほとんど存在していませんでした。
要するに、義満は南朝に空手形(からてがた)をつかませたのです。南北朝の合一に関する義満の手法は卑怯(ひきょう)かつ詐欺的なものでしたが、同時に彼の行動によって二つあった朝廷が一つにまとまったことで、それまでの混乱状態から回復して世の中が平和に向かうという皮肉な結果になりました。まさに「平和は綺麗事だけでは達成できない」ということですね。
なお、義満に「だまされた」形となった南朝の勢力は、後亀山上皇が一時期は京都から吉野へ移られるなど、幕府や朝廷(=北朝)に対して様々な抵抗を続けることになりますが、詳しくは後で紹介します。
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