それもこれも、朝廷が二つに分かれて争う状態が続いていたのが大きな理由でした。先の鎌倉幕府や後の戦国時代、あるいは江戸幕府など、武家政権の多くは長い伝統に基づく権威を有する朝廷の扱いに悩まされてきましたが、それが二つもあってはたまったものではありません。
なぜなら、対立している二つの勢力が、それぞれ北朝や南朝を別々に担(かつ)ぐことによって、お互いが朝廷の後見を得ることになり、争い事がいつまで経っても収拾がつかなくなるからです。
このため、義満も南北朝が一つになるよう工作を続け、南朝側も長慶天皇から皇位を継承された後亀山(ごかめやま)天皇が和睦に応じられたことで、南朝の元中(げんちゅう)9年/北朝の明徳(めいとく)3(1392)年についに「南北朝の合一(ごういつ)」が実現しました。
南北朝の合一は、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器を譲られて退位されるという形式で行われましたが、そこには義満による巧妙な罠(わな)が仕掛けられていました。
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