義詮は、父の尊氏が将軍であった頃から、叔父にあたる足利直義(あしかがただよし)や南朝の北畠親房(きたばたけちかふさ)、あるいは腹違いの兄弟である足利直冬(あしかがただふゆ)に攻められて京都を奪われるなど、自身の武力が決して優れているとは言えませんでした。
将軍就任後も、南朝に寝返った執事(後の管領)の細川清氏(ほそかわきようじ)に一時期は京都を落とされるなど政情不安が続き、将軍就任前に自分が守っていた関東には、弟の足利基氏(あしかがもとうじ)を鎌倉府の長官たる鎌倉公方(かまくらくぼう)に任じたものの、基氏自身も南朝の攻撃に悩まされ続けました。
一方、南朝の正平7年/北朝の観応(かんのう)3(1352)年に南朝側が強引にお連れした北朝の三人の上皇(光巌=こうごん、光明=こうみょう、崇光=すこう)を京都へ戻したり、楠木正成(くすのきまさしげ)の子である楠木正儀(くすのきまさのり)から幕府に対する和睦(わぼく)の申し入れがあったりと軟化の動きもありましたが、結局は不調に終わり、義詮は南朝の正平22年/北朝の貞治(じょうじ)6(1367)年に38歳の若さで死去しました。
なお、義詮の死去の翌年にあたる南朝の正平23年/北朝の応安(おうあん)元(1368)年には、南朝を開いた後醍醐(ごだいご)天皇の子である後村上(ごむらかみ)天皇も崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)され、子の長慶(ちょうけい)天皇が即位されましたが、長慶天皇の治世においては、南北朝の和睦の動きはほとんど見受けられませんでした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。