尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎え討つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。いわゆる「湊川の戦い」のことです。
尊氏が再び京都を制すると、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)に逃れられ、光厳上皇の弟にあたる光明(こうみょう)天皇が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。
後醍醐天皇は京都に幽閉(ゆうへい、閉じ込めて外に出さないこと)された後、尊氏との和睦(わぼく)に応じて、天皇であることを証明する三種の神器を光明天皇に渡されましたが、その後に隙(すき)を見て京都を脱出され、奈良の吉野へ向かわれました。
吉野に到着された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物であると宣言されて、新たに朝廷を開かれた後、南朝の延元(えんげん)4年/北朝の暦応(りゃくおう、または「れきおう」)2(1339)年に崩御されました。かくして、京都の朝廷(=持明院統)と吉野の朝廷(=大覚寺統)とが並立し、以後約60年にわたって争いを繰り返す「南北朝の動乱」が本格的に始まったのです。
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