元寇の後、北条時宗が弘安7(1284)年に34歳の若さで亡くなると、時宗の子の北条貞時(ほうじょうさだとき)が13歳で9代執権となりましたが、御内人の代表である内管領(うちかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)が、弘安8(1285)年に貞時の外祖父(がいそふ、母方の父のこと)である有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼしました。
この事件は、旧暦11月の霜月(しもつき)に起きたことから「霜月騒動」と呼ばれています。騒動の後は平頼綱が政治の実権を握りましたが、成長した貞時によって正応(しょうおう)6(1293)年に頼綱が滅ぼされると、以後は得宗が絶対的な権力を手に入れるようになり、御内人や北条氏一門が幕政を独占する得宗専制政治がますます強まっていきました。
このように幕府内の権力争いが激しくなる一方で、一般御家人の生活状況は元寇をきっかけにより一層悪化しました。なぜ元寇が御家人の生活の足を引っ張ることになってしまったのでしょうか。
その原因は、鎌倉幕府を支えていた「御恩と奉公」のシステムの崩壊(ほうかい)にありました。
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