なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)が置かれましたが、院評定衆は幕府の承認を得て任命されたため、結果的に幕府が朝廷の政治に深く関わるようになりました。
康元(こうげん)元(1256)年、時頼は病気のため30歳で執権の地位を一族の北条長時(ほうじょうながとき)に譲って出家しましたが、政治の実権は握り続けました。
時頼のように北条氏の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である「得宗(とくそう)」が政治を指導することを「得宗専制政治」といい、鎌倉幕府はこの頃に全盛期を迎えました。
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