275年の9年前にあたる266年には、倭国の女王(=邪馬台国の壱与(いよ)ではないかと推定されています)が魏にかわった晋(しん)に使者を遣(つか)わしたと記録されています。すなわち、孝元天皇が即位した頃には邪馬台国はまだ存在していた可能性は高いと考えられます。
しかし、おそらくは孝元天皇の治世の間に邪馬台国は大和朝廷に平定されて歴史上から姿を消し、邪馬台国が勢力を伸ばしていた北大和や北河内の地域は大和朝廷が代わって支配することになりました。
そして、新たに朝廷の領地となった北大和や北河内から孝元天皇が正妃(せいひ)や側室(そくしつ)を迎え、さらに第9代の開化天皇(かいかてんのう)が北大和に宮殿を建てたと結論づけられるのです。
ちなみに、開化天皇は京都府北部の丹波地方の竹野(たけの)から側室を迎えており、彼の治世時に大和朝廷の勢力が日本海に達したと思われます。




いつも有難うございます。
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オバrev ふむふむ、ということは、
邪馬台国は近畿地方の小国で、
北大和を治めていた邪馬台国を、
大和朝廷が平定した。
という説ですね。
丹波地方には古墳がたくさんあるという話を聞いたことがありますので、位の高い人がいたのは確かでしょう・・・って素人がえらそうにすみません(^_^;)
およよのよ 先生!
いつも分かりやすい講座ありがとうございます。
でも一つだけ意見させてもらうと、色が多くてどれが重要なのかよく分からないです。
太字が重要なのは分かるんですけど色でどういう風に分けられているのか分かりません。
例えるならば奇麗好きの女子が12色のラメペンでノートをとって後で読み返したらキラキラすぎて訳が分からなくなっちゃうみたいな。
いや、その女子は別に私じゃないですよ?
重要な用語は緑色にして
重要な年号は赤色にして
重要な人物は青色にする…。
なんて事はできませんか?
オバrev様
黒田裕樹 そうですね。
私も邪馬台国は畿内にあったと考えています。ただ、魏や晋に使者を送るくらいですし、30余りの小国を従えていたと「魏志」倭人伝に書かれていますから、かなりの大国だったと思います。
そんな大国を仮に平定したのだとすれば、大和朝廷の勢力もかなりのものだったではないでしょうか。
仰るとおり、丹波地方だけでなく全国あちこちに古墳が残されています。古墳が作られた時期などを探れば、大和朝廷の勢力がいつ、どこまで伸びたかを知ることも出来ますよ。
およよのよ様
黒田裕樹 なるほど…。
色を多く使うことによって、かえって分かり辛くなってしまうということですか。
考えてみる必要はありそうですね。
有難うございました。
邪馬台国は近畿地方の小国で、
北大和を治めていた邪馬台国を、
大和朝廷が平定した。
という説ですね。
丹波地方には古墳がたくさんあるという話を聞いたことがありますので、位の高い人がいたのは確かでしょう・・・って素人がえらそうにすみません(^_^;)
いつも分かりやすい講座ありがとうございます。
でも一つだけ意見させてもらうと、色が多くてどれが重要なのかよく分からないです。
太字が重要なのは分かるんですけど色でどういう風に分けられているのか分かりません。
例えるならば奇麗好きの女子が12色のラメペンでノートをとって後で読み返したらキラキラすぎて訳が分からなくなっちゃうみたいな。
いや、その女子は別に私じゃないですよ?
重要な用語は緑色にして
重要な年号は赤色にして
重要な人物は青色にする…。
なんて事はできませんか?
私も邪馬台国は畿内にあったと考えています。ただ、魏や晋に使者を送るくらいですし、30余りの小国を従えていたと「魏志」倭人伝に書かれていますから、かなりの大国だったと思います。
そんな大国を仮に平定したのだとすれば、大和朝廷の勢力もかなりのものだったではないでしょうか。
仰るとおり、丹波地方だけでなく全国あちこちに古墳が残されています。古墳が作られた時期などを探れば、大和朝廷の勢力がいつ、どこまで伸びたかを知ることも出来ますよ。
色を多く使うことによって、かえって分かり辛くなってしまうということですか。
考えてみる必要はありそうですね。
有難うございました。