しかし、信玄が亡くなったことで義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。義昭はこの後もう一度挙兵しますが再び敗れ、元亀4(1573)年旧暦7月に、義昭は信長によって京を追われ、240年近く続いた室町幕府は滅亡しました。
義昭を追放した信長は、返す刀で朝倉義景や浅井長政を次々と滅ぼし、越前から北近江にかけて領地を拡大することに成功すると、翌天正(てんしょう)2(1574)年には伊勢長島の一向一揆を、女性や子供に至るまで皆殺しにして、さらに天正3(1575)年には越前の一向一揆も滅ぼしました。
信長の一向一揆に対する酷(むご)い仕打ちは、いかに弟や家臣たちの復讐のためとはいえ、比叡山延暦寺の焼き討ちとともに、その残虐性が問題視されることが多いですが、いずれも先に手を出したのは宗教勢力の方であり、また一向一揆は女性や子供までが武器を持って戦っていたという現実を考えれば、信長の行為はやむを得ないと判断すべきかもしれません。
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