包囲網が連携(れんけい)することを防いだ信長は、同年旧暦9月12日に、信長に抵抗を続けた比叡山の焼き討ちを敢行しました。長い歴史を誇った延暦寺は業火(ごうか)に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶(そうりょ)のみならず、女人禁制のはずなのになぜか存在した女性や、あるいは子供までもが容赦なく首をはねられました。
比叡山の延暦寺は信長に敵対する宗教勢力としては滅亡しましたが、一向一揆の軍勢は相変わらず信長を苦しめ続けました。そして元亀3(1572)年になると、信長が最も恐れていた甲斐(かい、現在の山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が将軍義昭の誘いに応じ、上洛を目指して動き始めました。
信玄は「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で徳川家康と信長の連合軍を苦も無く蹴散らすと、不気味な足音とともに京を目指して進軍を続けました。信玄に京へ攻められては、信長とて勝ち目はありません。信長の運命はまさしく風前の灯(ともしび)となったはずでした。
しかし、天は信長に味方しました。上洛の途中で信玄が病に倒れ、帰らぬ人となってしまったのです。
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