覚悟を決めた信長は、こう宣言しました。
「ワシは逃げる」。信長の決死の逃避行が始まりました。
信長はわずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出すると、駆けに駆けて一目散に京を目指しました。こうして朝倉氏と浅井氏による包囲網から辛くも逃れた信長は、数日のうちに京に戻ることができましたが、その供はわずか10人ばかりであったと伝えられています。
後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれた負け戦(いくさ)の屈辱を味わった信長は、浅井・朝倉の両氏を深く恨むようになりました。やがて信長は同盟相手の徳川家康(とくがわいえやす)とともに、元亀(げんき)元(1570)年旧暦6月の「姉川(あねがわ)の戦い」で浅井・朝倉の連合軍を破りましたが、両氏に止めをさすことはできませんでした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。