義昭は、自らの将軍就任の最大の功労者である信長に深く感謝し、管領(かんれい、将軍を補佐して幕政を統轄する役職のこと)もしくは副将軍になるよう勧めましたが、信長はいずれも辞退し、代わりに堺を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。一見すると、いわゆる「名よりも実を取った」と思われる信長の行為でしたが、その裏にはしたたかな計算がありました。
ここで信長の立場で考えてみましょう。管領や副将軍を引き受けるということは、信長が室町幕府の組織の一員に、もっといえば義昭の家来になるということを意味します。信長の最終的な目標は、自身による天下統一ですから、いずれは義昭を見限るつもりでしたし、現実にそうなりました。しかし、その際にもし彼が管領や副将軍であったとすれば、主君に対する裏切りという重罪を犯してしまうことになります。
いくら戦国の世とはいえ、主(あるじ)に対する謀反(むほん)というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響を及ぼすのは避けられません。だからこそ、信長は義昭の誘いを断り、その代わりに我が国最大の貿易港の一つであった堺をおさえるために、和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。堺を我が手にしたことによって、信長はこの後、貿易などの経済面において他の戦国大名よりも大きく優位に立つことになります。
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