今回は、信長が美濃(みの、現在の岐阜県南部)の攻略を果たした頃から始まった「信長包囲網(ほういもう)」をいかにして打ち破ったかを紹介しながら、彼の「政治家」としての優れた先進性や、彼が本当に「虐殺者」なのかどうかなどについて振り返ってみます。
信長が美濃の攻略を目指していた頃は、室町幕府の権威はさらに低下しており、将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が、永禄(えいろく)8(1565)年に松永久秀(まつながひさひで)らによって暗殺されてしまいました。
次の将軍職を目指していた義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)は、それまで匿(かくま)われていた越前(えちぜん、現在の福井県北東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)から離れ、義景の家臣であった明智光秀(あけちみつひで)の仲介で信長を頼りました。
それまでに北近江(きたおうみ、現在の滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結び、妹のお市(いち)を長政の妻としていた信長は、この好機に早速上洛(じょうらく、京へ向かうこと)を決意しました。
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