それでも政府は翌年の明治8(1875)年に漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり、詔とは天皇の命令による文書のこと)を出して憲法制定に向けての意欲を示し、西南戦争が終わった後の明治14(1881)年には国会開設の勅諭(ちょくゆ、天皇による訓示に相当)が出され、明治23(1890)年に国会を開設することを公約するなど、憲法制定に向けて着実に前進していきました。
つまり、政府は自由民権運動に押されて仕方なく憲法制定や議会政治を目指したわけではなかったのです。また、両者の最終目的にも大きな差はなく、政府主導による「上からの改革」と、自由民権運動が目指す「下からの改革」との違いがあっただけでした。
政府の立場で考えてみれば、諸外国による植民地化を防ぎながら、あらゆる分野において近代化を進めなければならないという厳しい情勢のなかでは、政府による強い権限で何事も実行しなければならないという信念がありました。それゆえに、急進的に近代化を進めようとする自由民権運動とはしばしば対立関係となり、反体制運動に対する政府の厳しい取り締まりもあったのです。




いつも有難うございます。
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りら 自由民権運動真の意味がやっと分かりました
明治時代は激動の時代で歴史を語る
に面白いですよね
私は今江戸時代 水郷を利用して
江戸へ荷物を運んで栄えた
佐原をアップしています
当時の繁栄が今もしのばれました
りらさんへ
黒田裕樹 自由民権運動に関しては、反体制運動という姿勢が理想とされるのか、過大評価されすぎているような気がします。
平和な時代とは異なり、一歩間違えれば植民地化という危機のもとでは、強い政府による政治主導も致し方ないと考えなければなりません。そして、その原因は政府ばかりでなく、開国のチャンスをみすみす潰して我が国を極度の混乱に巻き込んだ江戸幕府にもあります。
まさに激動の歴史ですね。
佐原の風景は昔の面影が残っていて素晴らしいですね(^o^)丿
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明治時代は激動の時代で歴史を語る
に面白いですよね
私は今江戸時代 水郷を利用して
江戸へ荷物を運んで栄えた
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当時の繁栄が今もしのばれました
平和な時代とは異なり、一歩間違えれば植民地化という危機のもとでは、強い政府による政治主導も致し方ないと考えなければなりません。そして、その原因は政府ばかりでなく、開国のチャンスをみすみす潰して我が国を極度の混乱に巻き込んだ江戸幕府にもあります。
まさに激動の歴史ですね。
佐原の風景は昔の面影が残っていて素晴らしいですね(^o^)丿