また、翌1247年には有力御家人の三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼし、北条氏の勢力の拡大に成功しました。三浦泰村との戦いは、当時の年号から宝治合戦(ほうじかっせん)と呼ばれています。さらに1252年には第5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)を京都へ追放し、代わりに後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の皇子である宗尊親王(むねたかしんのう)を第6代将軍として迎えました。これ以降、名目(めいもく)だけの皇族将軍(こうぞくしょうぐん)が幕府滅亡まで4代続くことになります。
また、時頼は当時増加していた御家人たちの所領をめぐる訴訟(そしょう)を迅速(じんそく)に処理するため、1249年に評定衆の会議である評定のもとに引付(ひきつけ)という役職を新たに設け、引付衆(ひきつけしゅう)を任命して評定衆を補佐させました。なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)が置かれましたが、院評定衆は幕府の承認を得て任命されたため、結果的に幕府が朝廷の政治に深く関わるようになりました。
1256年、時頼は病気のため30歳で執権の地位を一族の北条長時(ほうじょうながとき)に譲(ゆず)って出家しましたが、政治の実権は握り続けました。時頼のように北条氏の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である得宗(とくそう)が政治を指導することを得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)といい、鎌倉幕府はこの頃に全盛期を迎えました。




いつも有難うございます。
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まり姫 黒田さんこんにちは☆
どうもご心配いただきありがとうございました。
せっかく温かいコメントいただいたのに、お返事が書けなくて申し訳ありませんでしたゴメンなさい・・・(´_`illi)
少し入院していました^^
昨日退院してきたばかりなので、今日お詫びと御礼にお邪魔しましたです^^
また今日からよろしくお願いしますねσ(゚ー^*)
伯父が余計なことを書いたようで・・・・``r(^^;)ポリポリ
久しぶりのポチです(*^_^*)
.信じられないのですが・・
伝次郎 別件ですが、お邪魔させて下さい。
ブログ 老兵の独り言より引用
http://neyama.blog31.fc2.com/
先日大阪府下公立学校における外国籍教員が135人を数えるとされています。
八尾市教育委員会人事総務課より以下の回答。
八尾市立学校における外国籍教員について(平成22年1月25日現在)
大韓民国籍 9名
大丈夫なのでしょうか?
ブログ楽しみに見ています。
まり姫さんへ
黒田裕樹 ご退院おめでとうございます。
何かと大変だったみたいですが、良かったですね。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
伝次郎さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。
お言葉の件ですが、外国籍の人も地方公務員になれるという規定がある以上は、こういった事態も十分考えられるではないか、と思います。
それよりも大きな問題としては、外国籍だからといってそれだけで差別するのではなく、国籍に関係なく、我が国の公教育のために力を尽くしてくれるのか、という一点に尽きると考えております。
今後ともよろしくお願いいたします。
.
HANA子 こうして見てみると、幕府成立から50年あまり、北条氏は権力確立のための行動に余念がなかったのだなということがはっきりわかりますね
内部体制の基盤固めに敵対する有力な勢力の排除。体制の組織作りetc
読み進んでいてふと思い浮かんだのはマキアベッリの「国家論」の文言たち
なるほど、真理は時や場所の違いはあっても変わらないものだということなんでしょうね
HANA子さんへ
黒田裕樹 確かに北条氏の発展のためには手段を選ばないあたりがマキャヴェリズムを感じさせますね。
それでも大勢の御家人の支持を受けたのは、北条氏の政治の手法が上手かったからなのでしょう。
次回(26日)以降の更新では、北条氏から産まれた一つの伝説を紹介することになります。
.
紗那 執権政治全盛ですねー。
北条氏もやるもんです。
まぁ、ここから北条氏も地味に没落していくってことですかねー。
正直鎌倉時代は、幕府開く⇒承久の乱⇒御成敗式目⇒元寇⇒永仁⇒倒幕 くらいしか、授業でもやってないもんですから。
ここでしっかり勉強していきます。
なんか出家しても実験握るって、院政みたいですねw
紗那さんへ
黒田裕樹 > 執権政治全盛ですねー。
> 北条氏もやるもんです。
> まぁ、ここから北条氏も地味に没落していくってことですかねー。
北条氏による執権政治は、時頼の頃が全盛期といって差し支えないでしょう。
時頼の息子の頃に「大事件」が起きて以降は後退期に差し掛かりますね。
> 正直鎌倉時代は、幕府開く⇒承久の乱⇒御成敗式目⇒元寇⇒永仁⇒倒幕 くらいしか、授業でもやってないもんですから。
> ここでしっかり勉強していきます。
随分アッサリとした授業ですね。中学生ならば仕方がないかな…。
しばらく休憩をはさむことになりますが、鎌倉時代はまだまだ続きますよ!(^^♪
> なんか出家しても実権握るって、院政みたいですねw
確かにそうですね(^^ゞ
我が国には引退したり、あるいは役職についていないにも関わらず、政治の実権を握る人が多いのはなぜでしょうか?
将軍
オバrev 藤原氏の摂関政治のようなことを北条氏はやっていたんですね。
でも、北条氏自身が将軍になって権力を握る方がシンプルだと思うのですが、何故そうしなかったんでしょうか?
その方が好都合ということなんでしょうが、どうもよく分かりません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 藤原氏の摂関政治のようなことを北条氏はやっていたんですね。
天皇を将軍、摂関家を得宗に換えれば、形式的には全く同じですね。
> でも、北条氏自身が将軍になって権力を握る方がシンプルだと思うのですが、何故そうしなかったんでしょうか?
> その方が好都合ということなんでしょうが、どうもよく分かりません。
その大きな理由は、ズバリ「身分の壁」です。
天皇には皇室の身分の方々しかなれないように、将軍にも源氏のように武士といえども身分の高い人間しかなれなかったのです。北条氏は平氏の流れをくむとはいえ、頼朝に比べればはるかに身分が低かったので、当時は将軍になることは考えられませんでした。そこで、摂関家のように実権のない将軍を立てることによって、政治の実権を握る方法をとったのです。
このあたりが、諸外国のように革命的に政治の頂点を奪い取ってしまう方式とは一線を画す我が国の政治手法ですね。
どうもご心配いただきありがとうございました。
せっかく温かいコメントいただいたのに、お返事が書けなくて申し訳ありませんでしたゴメンなさい・・・(´_`illi)
少し入院していました^^
昨日退院してきたばかりなので、今日お詫びと御礼にお邪魔しましたです^^
また今日からよろしくお願いしますねσ(゚ー^*)
伯父が余計なことを書いたようで・・・・``r(^^;)ポリポリ
久しぶりのポチです(*^_^*)
ブログ 老兵の独り言より引用
http://neyama.blog31.fc2.com/
先日大阪府下公立学校における外国籍教員が135人を数えるとされています。
八尾市教育委員会人事総務課より以下の回答。
八尾市立学校における外国籍教員について(平成22年1月25日現在)
大韓民国籍 9名
大丈夫なのでしょうか?
ブログ楽しみに見ています。
何かと大変だったみたいですが、良かったですね。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
お言葉の件ですが、外国籍の人も地方公務員になれるという規定がある以上は、こういった事態も十分考えられるではないか、と思います。
それよりも大きな問題としては、外国籍だからといってそれだけで差別するのではなく、国籍に関係なく、我が国の公教育のために力を尽くしてくれるのか、という一点に尽きると考えております。
今後ともよろしくお願いいたします。
内部体制の基盤固めに敵対する有力な勢力の排除。体制の組織作りetc
読み進んでいてふと思い浮かんだのはマキアベッリの「国家論」の文言たち
なるほど、真理は時や場所の違いはあっても変わらないものだということなんでしょうね
それでも大勢の御家人の支持を受けたのは、北条氏の政治の手法が上手かったからなのでしょう。
次回(26日)以降の更新では、北条氏から産まれた一つの伝説を紹介することになります。
北条氏もやるもんです。
まぁ、ここから北条氏も地味に没落していくってことですかねー。
正直鎌倉時代は、幕府開く⇒承久の乱⇒御成敗式目⇒元寇⇒永仁⇒倒幕 くらいしか、授業でもやってないもんですから。
ここでしっかり勉強していきます。
なんか出家しても実験握るって、院政みたいですねw
> 北条氏もやるもんです。
> まぁ、ここから北条氏も地味に没落していくってことですかねー。
北条氏による執権政治は、時頼の頃が全盛期といって差し支えないでしょう。
時頼の息子の頃に「大事件」が起きて以降は後退期に差し掛かりますね。
> 正直鎌倉時代は、幕府開く⇒承久の乱⇒御成敗式目⇒元寇⇒永仁⇒倒幕 くらいしか、授業でもやってないもんですから。
> ここでしっかり勉強していきます。
随分アッサリとした授業ですね。中学生ならば仕方がないかな…。
しばらく休憩をはさむことになりますが、鎌倉時代はまだまだ続きますよ!(^^♪
> なんか出家しても実権握るって、院政みたいですねw
確かにそうですね(^^ゞ
我が国には引退したり、あるいは役職についていないにも関わらず、政治の実権を握る人が多いのはなぜでしょうか?
でも、北条氏自身が将軍になって権力を握る方がシンプルだと思うのですが、何故そうしなかったんでしょうか?
その方が好都合ということなんでしょうが、どうもよく分かりません。
天皇を将軍、摂関家を得宗に換えれば、形式的には全く同じですね。
> でも、北条氏自身が将軍になって権力を握る方がシンプルだと思うのですが、何故そうしなかったんでしょうか?
> その方が好都合ということなんでしょうが、どうもよく分かりません。
その大きな理由は、ズバリ「身分の壁」です。
天皇には皇室の身分の方々しかなれないように、将軍にも源氏のように武士といえども身分の高い人間しかなれなかったのです。北条氏は平氏の流れをくむとはいえ、頼朝に比べればはるかに身分が低かったので、当時は将軍になることは考えられませんでした。そこで、摂関家のように実権のない将軍を立てることによって、政治の実権を握る方法をとったのです。
このあたりが、諸外国のように革命的に政治の頂点を奪い取ってしまう方式とは一線を画す我が国の政治手法ですね。