鎌倉幕府の経済基盤としては、朝廷から頼朝に与えられた知行国(ちぎょうこく)である関東御分国(かんとうごぶんこく)や、頼朝が持っていた平家没官領(へいけもっかんりょう)を基本とする多数の荘園である関東御領(かんとうごりょう)などがありました。
御家人は、頼朝から先祖伝来の所領を保障されるという本領安堵(ほんりょうあんど)や、新たに所領を伴(ともな)う一定の権利を与えられるという新恩給与(しんおんきゅうよ)といった権利を与えられました。御家人は、こういった御恩(ごおん)に対する奉公(ほうこう)として、平時には自費で京都大番役や幕府の警護である鎌倉番役(かまくらばんやく)をつとめる一方、戦時には「いざ鎌倉」とばかりに生命を懸けて軍役(ぐんやく)につきました。
院政時代以降、各地に開発領主(かいはつりょうしゅ)として勢力を拡大してきた武士団のうち、特に東国を中心とする東国武士団(とうごくぶしだん)は、自己の所領を保障してくれた幕府の配下として新たに組織されました。東国は事実上幕府の支配地域となり、行政権や裁判権を幕府が握り、その他の地方であっても、国衙(こくが)の任務を守護を通じて幕府が吸収していきました。
このように、土地の給与を通じて、御恩と奉公の主従関係が成り立つ制度を封建制度(ほうけんせいど)といいます。また、当時の武士のように「自己の持つ一つの所領(=土地)のために命懸けで働く」ことを 「一所懸命」(いっしょけんめい)というようになり、「一生懸命」(いっしょうけんめい)にもつながっています。




いつも有難うございます。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
今度は鎌倉幕府の組織の講座なんですね。
今回も楽しく勉強できたらと思います。
「一生懸命」って封建制度から生まれたんですね、こうやって言葉の語源を知るのは楽しくていいものです。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 今度は鎌倉幕府の組織の講座なんですね。
> 今回も楽しく勉強できたらと思います。
昨日(17日)から通常の講座に戻りましたが、明日(19日)からは政局の展開の話になるため、組織のご理解を深めていただいたほうが分かりやすい、という判断によるものです。
> 「一生懸命」って封建制度から生まれたんですね、こうやって言葉の語源を知るのは楽しくていいものです。
有難うございます。今回のような講座の場合は、どうしても事柄の羅列になってしまいがちなので、できるだけエピソードをからめられることができれば、と思っております。
疑問
オバrev 本当にもそこまで忠誠誓っていたのだろうか、以前から、何故そこまで奉公するのか疑問に思ってました。
土地の所有を認めてもらうことに対して、いざ鎌倉とばかりに奉公するというのは、よほど感謝しているとうことですよね。
ということは、それまでは、貴族や寺社などの荘園の小作人のような立場から、狭いながらも地主になり、しかもその土地で採れる米も自分のものになったということですかね?
確か武士の多くは元々農民だったような微かな記憶が・・・(;^_^A
しかし土地以外にも色々特権が与えられたからこそ、封建制度ができたような気もします。その特権っていったい何だろう(´・ω・`)?
何はともあれ、無茶苦茶大幅な構造改革を見事に実行した、頼朝の政治家としての力は凄いと思いますね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 オバrevさんにとってのお答えになるかどうかは分かりませんが、私なりの見解を述べたいと思います。
守護や地頭の設置は、それまで一切の権利を認められてこなかった武士たちにとって、自分たちが初めて朝廷に公認された存在となったということです。
それまでは、極論すれば人間扱いすらされていなかったのですから、この違いは現代の我々からは想像できないほどに大きかったのではないかと考えられます。
次に、武士は朝廷や荘園の所有者などとは違って、強力な武力を持っています。自分たちの存在や権力を公認された武士は、今後武力を背景に様々な方法で朝廷や荘園の所有者に対して圧力をかけます。
その圧力に抗し切れずに、武士たちはこの後も様々な特権を与えられることになり、時間はかかりますが、豊臣秀吉の太閤検地(たいこうけんち)のように、やがては武士がすべての土地の所有者を確定させるほどの権力を持つようになります。
武士たちにとって、このような膨大(ぼうだい)な権力を持たせるきっかけをつくってくれた鎌倉幕府はまさしく「救いの神」だったことでしょう。一方、朝廷や荘園の所有者などにとっては「ひさしを貸して母屋を取られる」思いだったに違いありません。
当時の武士たちの思いや、その後の我が国の発展を考えれば、今回のパターンは我が国の国益に十分にかなったものですが、逆にいえば、このような「なしくずし」に相手の権力を認めるという行為は、文字どおり「千丈(せんじょう)の堤(つつみ)も蟻(あり)の穴より崩れる」ということも考えられ、国益を壊滅的に損なう結果にもなりかねないのが世の中の恐ろしいところです。
本当の歴史的経緯や、他国の悲惨な結果、あるいは今後の我が国に待ち受けるであろう過酷な運命を知らずして、上っ面の同情論だけで「ある勢力に憲法違反の疑いもある特権を易々と与える」行為が、本当に我が国のためになるのでしょうか。
今度は鎌倉幕府の組織の講座なんですね。
今回も楽しく勉強できたらと思います。
「一生懸命」って封建制度から生まれたんですね、こうやって言葉の語源を知るのは楽しくていいものです。
> 今回も楽しく勉強できたらと思います。
昨日(17日)から通常の講座に戻りましたが、明日(19日)からは政局の展開の話になるため、組織のご理解を深めていただいたほうが分かりやすい、という判断によるものです。
> 「一生懸命」って封建制度から生まれたんですね、こうやって言葉の語源を知るのは楽しくていいものです。
有難うございます。今回のような講座の場合は、どうしても事柄の羅列になってしまいがちなので、できるだけエピソードをからめられることができれば、と思っております。
土地の所有を認めてもらうことに対して、いざ鎌倉とばかりに奉公するというのは、よほど感謝しているとうことですよね。
ということは、それまでは、貴族や寺社などの荘園の小作人のような立場から、狭いながらも地主になり、しかもその土地で採れる米も自分のものになったということですかね?
確か武士の多くは元々農民だったような微かな記憶が・・・(;^_^A
しかし土地以外にも色々特権が与えられたからこそ、封建制度ができたような気もします。その特権っていったい何だろう(´・ω・`)?
何はともあれ、無茶苦茶大幅な構造改革を見事に実行した、頼朝の政治家としての力は凄いと思いますね。
守護や地頭の設置は、それまで一切の権利を認められてこなかった武士たちにとって、自分たちが初めて朝廷に公認された存在となったということです。
それまでは、極論すれば人間扱いすらされていなかったのですから、この違いは現代の我々からは想像できないほどに大きかったのではないかと考えられます。
次に、武士は朝廷や荘園の所有者などとは違って、強力な武力を持っています。自分たちの存在や権力を公認された武士は、今後武力を背景に様々な方法で朝廷や荘園の所有者に対して圧力をかけます。
その圧力に抗し切れずに、武士たちはこの後も様々な特権を与えられることになり、時間はかかりますが、豊臣秀吉の太閤検地(たいこうけんち)のように、やがては武士がすべての土地の所有者を確定させるほどの権力を持つようになります。
武士たちにとって、このような膨大(ぼうだい)な権力を持たせるきっかけをつくってくれた鎌倉幕府はまさしく「救いの神」だったことでしょう。一方、朝廷や荘園の所有者などにとっては「ひさしを貸して母屋を取られる」思いだったに違いありません。
当時の武士たちの思いや、その後の我が国の発展を考えれば、今回のパターンは我が国の国益に十分にかなったものですが、逆にいえば、このような「なしくずし」に相手の権力を認めるという行為は、文字どおり「千丈(せんじょう)の堤(つつみ)も蟻(あり)の穴より崩れる」ということも考えられ、国益を壊滅的に損なう結果にもなりかねないのが世の中の恐ろしいところです。
本当の歴史的経緯や、他国の悲惨な結果、あるいは今後の我が国に待ち受けるであろう過酷な運命を知らずして、上っ面の同情論だけで「ある勢力に憲法違反の疑いもある特権を易々と与える」行為が、本当に我が国のためになるのでしょうか。