満州における排日運動が強まるに従って、日本人と中国人との間の衝突が増加し続けたほか、ソ連の軍事的脅威も本格化しました。関東州や満鉄の警備を任務としていた我が国の関東軍は、日本政府を通じてこれらの事態を打開しようとしましたが、当時は幣原喜重郎外務大臣による協調外交が復活しており、武力に頼らずに話し合いによる解決を目指そうとしていました。
しかし、そのような弱腰な姿勢は相手を増長させるばかりとなり、昭和6(1931)年に入ると、我が国の参謀本部の参謀が満州とソ連の国境付近を調査旅行中に張学良の軍隊に殺害された「中村大尉(なかむらたいい)事件」や、満州の長春(ちょうしゅん)の北にあった万宝山(まんぽうざん)で朝鮮半島からの入植者(当時は日本人)と中国人とが水の利権や耕作権をめぐって衝突した「万宝山事件」が起きました。
チャイナによる度重なる不法行為や、それらを黙って見過ごそうとした幣原外交の軟弱ぶりに業(ごう)を煮やした、石原莞爾(いしわらかんじ)ら一部の関東軍将校が、同年9月18日に柳条湖(りゅうじょうこ)付近の鉄道線路の爆破事件を起こしました。これを「柳条湖事件」といいます。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
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北朝鮮で戦争がおき、難民が満州へ逃げると似たようなことが起きそうです。