大正5(1916)年、我が国とロシアは第四次日露協約を結び、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認したほか、両国の軍事同盟的な関係を強化しました。また、翌大正6(1917)年にはイギリスとの間に覚書を交わして、山東省におけるドイツの権益を我が国が継承することを承認させました。
一方、我が国のチャイナへの進出に対して最も警戒し、かつ批判的であったアメリカとの間においても、同じ大正6(1917)年に、前外務大臣の石井菊次郎(いしいきくじろう)とランシング国務長官との間で「石井・ランシング協定」が結ばれ、チャイナの領土保全・門戸開放の原則と、チャイナにおける我が国の特殊権益の保有とを確認しあいました。
しかし、この協定が結ばれた当時は、アメリカが第一次世界大戦に参戦している時期であり、アメリカが我が国と協定を結んだのは、自国が参戦中に、中国大陸に対して日本が余計な手出しをしないように抑え込もうと考えたのが主な目的でした。それが証拠に、この協定は大戦終了後の大正12(1923)年に早くも破棄(はき)されています。
このように、我が国とアメリカとの関係は常に不安定であり、資源を持たない我が国にとって生命線であった満州などチャイナにおける権益を、アメリカが脅(おびや)かすようになりましたが、ちょうどこの時期に「ある大国」が滅亡したことによって、これらの権益がさらに危機的な状況を迎えてしまうのです。
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