しかし、ロシアが清国から租借(そしゃく)後に大要塞(だいようさい)を構築した旅順攻囲戦において、我が国は苦戦を強(し)いられました。総指揮を任された乃木希典(のぎまれすけ)は何度も総攻撃を仕掛けたもののうまくいかず、この戦いだけで、乃木の息子を含めて約15,000人もの死者を出してしまいました。
翌明治38(1905)年1月に、乃木将軍が旅順攻略に成功すると、勢いに乗った我が国は、同年3月の「奉天(ほうてん)会戦」でも勝利しました。なお、奉天は現在の瀋陽(しんよう)であり、また奉天を占領した3月10日は、後に「陸軍記念日」と定められました。
陸戦で勝利を収められなかったロシアでしたが、無敵艦隊と言われたバルチック艦隊が健在であり、海戦において巻き返しは十分可能であると考えていました。
一方の我が国も、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃(う)ち破らない限り、真の勝利は有り得ないと気を引き締めており、両国の命運をかけた一大決戦が目前に迫っていました。
※下記の映像は3月25日までの掲載分をまとめたものです。
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