数多くの列強の中には、日本に対して必ずしも良い感情を持っていない国も存在します。もしここで、我が国が独自に動いて北京を制圧できたとしても、「日本は混乱のドサクサに紛(まぎ)れて清国を侵略した」と言い出す国が列強の中から出てくるに違いない、という思いが我が国をためらわせていました。
結局、我が国はヨーロッパ各国の総意に基づくイギリス政府からの正式な申し入れを受けて、初めて重い腰を上げることになったのですが、こうした背景には、白人中心の帝国主義の世の中で、有色人種の日本が生き残るためには、それこそ優等生のように節度ある行為を取らなければならない、という当時の日本政府の涙ぐましい努力もあったのです。
出兵を決意した我が国は、アメリカやヨーロッパなど8か国の連合軍の中心となって活躍したほか、救援軍が到着するまでの間に、義勇軍として奮戦した柴五郎(しばごろう)の功績などもあって、戦いは連合国軍の勝利に終わり、清国は降伏しました。なお、この戦いは「北清(ほくしん)事変」と呼ばれています。
※下記の映像は3月15日までの掲載分をまとめたものです。
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