いわゆる「上からの改革」に失敗した清国内では、白人排斥(はいせき)への動きが次第に強くなり、「扶清滅洋(ふしんめつよう、清国を助けて西洋を滅ぼすという意味)」を唱えた排外主義団体の義和団(ぎわだん)が、1900(明治33)年に国内各地で外国人を襲撃しはじめました。
勢いに乗った義和団は、首都の北京に入って各国公使館を包囲しましたが、清国政府は義和団を鎮圧するどころか、義和団に同調して列強各国に宣戦布告するという行動に出ました。
かくして「義和団の乱」(または「義和団事件」)は、単なる国内の反乱から対外的な戦争へと変化しましたが、これら一連の動きに、列強各国は大パニックになりました。
なぜなら、このまま放置していれば、清国内に残した自国の公使館員や居留民(きょりゅうみん)らが、清国の正規軍によって虐殺(ぎゃくさつ)されるのは目に見えていたからでしたが、だからと言って、遠くヨーロッパなどから援軍を派遣したとしても、間に合うはずもありません。
※下記の映像は3月15日までの掲載分をまとめたものです。
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