これは、外国を征するのに別の外国を利用するという「以夷制夷(いいせいい)」と呼ばれた、チャイナの伝統的発想に基づくものでしたが、領土の返還を受けて喜んだのもつかの間、日清戦争の敗北で「眠れる獅子」のメッキがはがれた清国は、欧米列強から成功報酬ともいうべき「落とし前」をキッチリと付けさせられることになってしまいました。
まず1897(明治30)年に、山東省(さんとうしょう)で自国のカトリック宣教師が清国人に殺害されたことを口実として、ドイツが膠州(こうしゅう)湾を占領すると、翌1898(明治31)年には同湾を清国から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだが、ここでは事実上の占領という意味)するとともに、山東省内の鉄道敷設(ふせつ)権を獲得(かくとく)しました。
他にも、イギリスが九龍(きゅうりゅう)半島や威海衛(いかいえい)を租借し、フランスは広州(こうしゅう)湾の租借権と付近の鉄道敷設権を得ました。欧米列強が、まるで清国を「生体解剖(せいたいかいぼう)」するかのように支配権を強めていった当時の流れは、今日では「中国分割」と呼ばれています。
なお、アメリカは中国分割には直接参加しなかったものの、1898(明治31)年にハワイを占領し、またフィリピンの支配に成功すると、翌1899(明治32)年に、国務長官のジョン=ヘイが「門戸(もんこ)開放・機会均等」を列強に通告しました。国務長官の宣言の背景には、アメリカが中国分割に出遅れたことで「自国の分も残してほしい」という本音(ほんね)がうかがえます。
※下記の映像は3月15日までの掲載分をまとめたものです。
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