なぜなら、当時のロシアは南下政策を進めており、いずれは満州から朝鮮半島の領有をも視野に入れていました。それなのに、我が国が遼東半島を自国の領土とすれば、ロシアの野望に大幅な支障をきたすことになってしまうのです。
実は、こうした事情を理解していた清国の方からも、我が国に「奪われた」領土の返還や、あわよくば下関条約の無効化をも目論(もくろ)んで、遼東半島の返還をロシアに働きかけていました。要するに、我が国は清国とロシアに嵌(は)められたのです。
ロシアはドイツやフランスを誘って、我が国に遼東半島を清国へ返還するよう強く迫りました。いわゆる「三国干渉」ですが、これが行われたのは明治28(1895)年4月23日であり、下関条約の調印からわずか6日後のことでした。
※下記の映像は3月6日までの掲載分をまとめたものです。
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